東日本大震災から早いもので3年半が過ぎました。

私は石巻が好きでよく石巻に行っていました。・・・・・・・・すみません、以下は地震体験になってしまします。

それが忘れもしない3.11の日、新宿のとあるビルの5階にいました。以前勤めていた会社の出張でちょうど私の報告が終わり休憩を挟んで次の報告へ入った矢先の出来事でした。10間も続いたと思われるほど長く強い地震でみんな悲鳴を上げいつ終わるともしれない時間を必死に耐えるのみでした。

やっとおさまったころ、どこからともなく人生最大の揺れだったとの声などが飛び交いまいた。

その後会議室は緊急対策本部へ。私たち宮城田尻から出張の二人はテレビに釘付け状態になり、現地の津波状況を見守るしかない状況でした。

そんな中衝撃的な映像が飛び込んで来ました。石巻イオン(蛇田)の屋上に500人が孤立しているではありませんか。沿岸部が10mの高さでも、こんな内陸まで津波が押し寄せるとは想像ができなかったからです。その後も各地の悲惨な映像を8時間に亘り永遠と見続けました。

中略

翌日の12日、都電が動き、事業所の車に救援物資を積み込み高速道路は通行不能につき、4号線など通れるところを探しながら田尻には13日の午前5時ころやっとの思いで到着しました。我が家も足の踏み場もないくらいものが飛散しておりましたが、暗くてその状態もよく把握できないくらいでした。

14日には社員のみなさんに救援物資を各人に配ったのち、心配な石巻を折りたたみ自転車のパンクを直し軽ワゴンに積み同級生と目指しました。

上北川の土手を走っているとちょうどみんなが買い物ポリ袋を両手に抱えながら大勢の人が道いっぱいになり歩いているところをかき分けるようにしてしまむらのスーパーまでたどり着きました。幹線道路は回数で溢れ自衛隊員も数多くいらっしゃいました。

そんなところを上北川の土手を縫うようにして折りたたみ自転車にて石ノ森章太郎漫画館方面を目指しました。そこは修羅場と化しておりました。橋の上は車、船、車、船と考えられない順番で並んでいる異様な光景でした。

更に行くと網地島から来て店が繁盛していた居酒屋の友福丸の青い屋根の店がありません。同級生にこの辺に店が確かあったのにと話していたら、周辺に居た集団の一人が私が友福丸の店長ですというのです。私の店はあそこまで流されてしまいましたとのことで20m先の青屋根しか残っていない悲惨な状況を目の当たりにしました。

でも店長は必ず私は再建しますと力強い声を発せられました。

この気概があれば石巻は必ず復興を遂げられるなとその時点で未来に少し希望の光がさしたような気持になったのを今でも覚えております。

石巻の紹介が遅れましたことをお詫びいたします。

石巻市はこんなまち(石巻市のHPより)

更新日:2013年05月20日

石巻市は、旧北上川の河口に位置し、宮城県北東部地域を代表する風光明媚な都市です。

伊達藩の統治下には、水運交通の拠点に位置する「奥州最大の米の集積港」として、全国的に知られた交易都市でした。

明治時代からは、金華山沖漁場を背景に漁業のまちとして栄え、昭和39年に新産業都市の指定を受けてからは、石巻工業港が開港するなど、工業都市としても発展を遂げてきました。

近年は、平成元年に石巻専修大学が開学するとともに、三陸縦貫自動車道の石巻までの延伸、石巻トゥモロービジネスタウン分譲開始、石巻港の整備など、21世紀を迎え、さらなる発展が期待されています。また、平成13年7月23日には、本市が進めるマンガランド構想の中核施設となる「石ノ森萬画館」が完成しました。

平成17年4月1日には石巻地域1市6町が合併し、新・石巻市として新たなスタートを切りました。

都市宣言

  • 非核平和都市宣言
  • 救命胴衣着用宣言都市に関する決議
  • 「食を活かした元気な石巻」都市宣言